人は、気づかぬうちに比較をする。
あの人は上だ
この人は下だ
優れている
劣っている
しかし、その比較の中にいる限り、
本質には辿り着くことはない。
なぜなら比較とは、
他人を見ているようで、
自分の過去と未来を同時に歪める行為だからである。
比較が生む錯覚

未熟な者を見て笑うとき、
人は一瞬だけ安心する。
自分はまだ下ではない、と。
しかしその安心は錯覚であり、
その瞬間、
かつての自分を切り捨てている。
人は誰しも未熟な地点を通ってきた。
転び、
迷い、
わからずに進んできた。
その過去を否定することは、
自分自身の積み重ねを否定することと同じである。
妬みが未来を止める

一方で、
優れた者を見て妬むとき、
人は距離を作る。
あの人は特別だ
自分とは違う存在だ
そう思うことで、
挑戦しない理由を作る。
だがそれは、
本来進めたはずの未来の自分に対して、
自ら扉を閉じる行為である。
二つの喪失

未熟を笑うことは過去を捨てること。
優秀を妬むことは未来を捨てること。
この二つを同時に行う者は、
今という地点をも失う。
道の本質

人は別の生き物ではない。
同じ道の上に立っている。
ただ、
進んでいる距離が違うだけであり、
見えている景色が少し違うだけである。
迷っている者は途中にいる者であり、
進んでいる者は少し先にいる者である。
それだけの差である。
比較ではなく位置

TAOISMにおいて重要なのは、
比較ではなく位置の認識である。
自分は今どこにいるのか。
過去と比べてどうか。
未来に向かってどう進むか。
他人ではなく、
自分の道に意識を戻すこと。
見方の転換

未熟な者を見たときは、
思い出せばよい。
ここは通った道だと。
優れた者を見たときは、
認めればよい。
ここは進める道だと。
笑う必要はない。
妬む必要もない。
ただ、
観て、
理解し、
進むだけでいい。
結び

見下しても何も変わらない。
羨んでも何も得られない。
変わるのは、
一歩踏み出した者だけである。
道とは、
評価する場所ではなく、
進む場所である。
今日もまた一歩、
前に出ること。
それだけが、
唯一の正解である。
コメント